第29回 (平成16年7月号)
“海外研修を終えた社員が帰国後すぐに退社”
渡航費用と入学金は全額返却だ!
“海外研修を終えた社員が帰国後すぐに退社”
渡航費用と入学金は全額返却だ!
SRアップ21山形(会長:山内 健)
相談内容
「これからの幼児教育はアメリカの○○システムだよ…」S社のY社長が幼児教育事業部の担当社員に対して研修を行なっています。
S社の社員のAが最新の幼児教育システムをマスターして、アメリカから帰ってきましたので、Y社長も鼻息が荒くなっているようです。
A社員は英語が堪能で、入社5年目の29歳、Y社長のお気に入りの社員です。今回の3週間にわたるアメリカへの渡航費、研修・滞在費用はすべて会社で支弁しました。他の社員もアメリカ研修への名乗りを上げていたのですが、Y社長の一声で、A社員に決まったという経緯がありました。
ところが、社内研修を終えた3日後にA社員から電話がかかってきました。なんと、退職の相談でした。Y社長は怒るやら、嘆くやら、なんとも落ち着きがありません。
やっと落ち着いたときには、「今回のアメリカ研修の費用を全部払わせてやる。あいつのために行かせてやったのに、恩知らずが…」社長は再び受話器を上げました。
社長の剣幕に押されながらもA社員は言いました。「急な家庭の都合で仕方ないのです。できる限りの引継はします。研修費用を返せといわれても困ります。命令で行ったのだから返す義務などありません」 しかし、社長はとまりません。
「研修費用と急に辞めたから損害賠償も請求するぞ。払わないなら退職金と相殺だ」 数日後○○労働組合から通知がきました。解雇予告手当と退職金の支払に関する通知書です。「こんなばかな…」Y社長は唖然としました。
相談事業所 S社の概要
-
- 創業
- 昭和48年
- 社員数
- 47名(パートタイマー12名)
- 業種
- スポーツクラブ・幼児教育施設の経営
- 経営者像
先代が行なっていた不動産事業とは別に、スポーツクラブや幼児教育の事業を手がけているS社は、昨今の不景気な状況にあっても比較的安定した経営を続けています。 二代目社長であるY氏は、先進的な経営感覚を有し、49歳という若さですが地元の名士です。 新しいもの、これから当たりそうなものについては、戦略的に情報を収集し、「これは…」と思ったものには、積極的にアタックしていました。
トラブル発生の背景
Y社長がもっとも期待していた社員に、なんと“退職”の相談をされてしまったものですから、Y社長が逆上してもやむを得なかったのかもしれません。しかし、経営者たるもの、いかなる事態にも冷静な対応を心掛けたいものです。いつも「他の社員が見ている、聞いている」という意識が必要だったのではないかと思います。
本件は、“高額な費用をかけて、社員に研修を受けさせたことが無駄になった”ということもY社長が感情的になった大きな要因となっています。 いずれにしても、A社員の退職の相談に親身にのっていれば、「完全に退職する」という事態は避けられたかもしれません。
経営者の反応
A社員と仲の良かった社員から「Aも悪いと思っているのですよ、完全に勤務できなくても、週2日でも3日でも出社できれば…、と考えていたようですよ」と聞いても、Y社長はどうも納得がいきません。A社員にまた電話をしようしたY社長を総務部長がやっとの思いで説得し、専門家に意見を聞くように進言しました。
弁護士からのアドバイス(執筆:村山 永)
社員に対する教育訓練の一環として、社員留学制度(海外研修制度等名称は様々)を設けている企業も少なくないと思われますが、そのような企業では、当該制度に関する規程を制定して、 【留学・研修等に要する費用は会社が当該社員に貸与するものとし、修学後一定期間勤続した場合にはその返還を免除する】であるとか、【留学・研修終了後5年以内に自己都合退職した場合には会社が負担した費用を返済しなければならない】など、と定める例が多いようです。
しかし、このような規程がある場合でも、果たして文言どおりの効力が認められるのかどうか、が問題となります。労働基準法16条には、使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、または損害賠償額を予定する契約をしてはならない旨が定められており、これに違反するのではないかと考えられるからです。
これについては、本来社員本人が負担すべき性質の修学・技能修得について、使用者がその費用を貸与し、ただし修学後一定期間勤続すればその返還を免除する、という実質のものであれば労基法16条違反ではないとされていますが、使用者が自己の企業の業務に役立つ諸能力の養成・向上のために業務命令で修学させ、修学後の社員を自企業に確保するために一定期間の勤務を約束させるという実質のものであれば、同条違反になる、というのが通説的な考え方です。
費用対効果を考えれば、修学後ある程度の期間は在職して会社のために働いてもらわないと困る、というのが企業側の本音でしょうが、会社の業務の一環として海外留学・研修を命じたのであれば、海外出張と同じくその費用は本来的に会社が負担するものと考えなければなりません。使用者からみれば一見理不尽な帰結のようですが、いわゆる労働者の足止めに利用されないよう、厳格な解釈が採られているのです。
会社が支出した留学ないし海外研修の費用の返還を求めて元社員を訴えた事例としては、新日本証券、富士重工及び長谷工コ?ポレ?ションのケ?スが比較的新しいものとして判例集に登載されています。結論からしますと、新日本証券と富士重工の事件では会社からの返還請求は認められず(それぞれ東京地判平10・9・25、平10・3・17)、長谷工の事件では請求が認められています(東京地判平9・5・26)。
結論が分かれたポイントは、長谷工のケ?スでは、留学先の選択が社員の自由意思に任されており、留学経験や学位の取得が直接担当業務に役立つものではなかったことから、この留学を業務とみることはできないと判断されたのに対し、新日本証券と富士重工のケ?スでは、それぞれの留学ないし海外企業研修が業務の一環と認められたところにあると考えられます。
以上を前提として本件S社のケ?スを見ますと、「研修費用と損害賠償も請求するぞ。払わないなら退職金と相殺だ」というY社長の言い分が認められないことは明らかです。S社の場合には、そもそも、研修後一定期間内に退職した場合には、研修費用を返還させる旨の規程すらなかったのですから、返還請求の根拠が全くありません。仮にその旨の規程があったとしても、業務性のある研修についての費用は本来的に会社負担ですから、残念ながら、A社員に対する返還請求は認められません。したがって、損害賠償請求の根拠もなく、退職金との相殺もあり得ないことになります。
さらに、労働組合を通じて解雇予告手当の支払を求める通知がきたとのことですので、おそらくY社長は、自己都合退職を申し出たAに対して、「お前のような奴はクビだ」等と叫んでしまった(即時解雇を通告した)のではないかと思われます。感情的になって余計なことを言ったために、自己都合退職として扱っておけば払う必要のない解雇予告手当まで払わされることになりそうです。
上述のとおり、会社が社員に対して返還請求できる教育訓練関係費用は、“業務に関連しないもの”に限られると考えなければなりませんので、業務への即応性を意図した費用は会社負担と割り切る他ありません。業務性のない、いわば大所高所からの人材育成という趣旨での留学・研修費用であれば、返還請求可能と解されますが、その場合も、費用の返還について明確な取り決めを社員との間でしておくことが必要となります。
今後の対策については、他士業から説明させましょう。
社会保険労務士からのアドバイス(執筆:西村 吉則)
これからの経営を維持させるためには、社員の積極的な能力開発がますます不可欠な時代になりました。本件A社員の最新の幼児教育システムの習得は、弁護士の説明の通り、業務命令による指示であり企業運営、業務遂行のために必要なものと考えられ、渡航費用と入学金などの研修にかかる費用は、企業が経費として負担してしかるべきもので、A社員に負担義務はないと言えます。
労基法第16条は、労働契約の不履行について違約金を定めまたは損害賠償額を予定する契約を禁止しています。
いったんS社が支出した研修にかかる費用について、一定期間の勤務をしない場合(労働契約の不履行のある場合)に損害賠償として、その費用の額を支払わせるということは労働契約の不履行についての損害賠償額の予定と解され労基法第16条に違反し無効になります。
Y社長は、研修にかかる費用の返済がない場合、退職金との相殺を考えていたようですが、もともと、会社が経費として負担すべき費用を、A社員の退職金から相殺することは許されるものではありません。
なお、退職金については、その支給について、労働契約、就業規則、労働協約などによって予め支給条件が定められ、支給することが使用者の義務と認められるものについては、労基法上「賃金」と解され労基法第24条第1項の全額払いの適用を受けることになります。また、相殺するということは、退職金から使用者が有する債権に相当する部分を控除するということになります。
したがって、賃金から税金、社会保険料などの法令で定められているもの以外を控除する場合には、「事業所の過半数で組織する労働組合があるときはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がないときは、過半数を代表する労働者との書面による協定」が必要となります。
本件のポイントは、A社員から家庭の都合による退職の相談に際し、Y社長は感情が先行し、解雇を放言してしまったことです。
労基法において、「解雇は、客観的に合理的な事由を欠き、社会通念上相当と認められない場合は、その権利を濫用したものとして無効とする。」としています。(労基法第18条の2)この権利の濫用か否かの判断要素としては、
1) | 解雇に合理性または相当の理由があるか。 |
2) | 解雇権の行使が不当な動機、目的からされたものでないか。 |
3) | 解雇理由とされた行状の程度と解雇処分の均衡がとれているか。 |
4) | 同種または類似の事案における取扱いと比較して均衡が取れているか。 |
5) | 一方の当事者である使用者側の対応に信義則等から見て問題はないか。 |
6) | 解雇手続は相当か。 |
などの事項があげられます。 |
S社にとって最新の幼児教育システム導入前のA社員の退社は、Y社長に解雇と言わしむべき相当な理由だったのでしょうが、以上の事項を説明すると、「冷静さを欠いた発言だった。」と自省の念も窺えました。 そこで、本事例の処理として、
1) | A社員に対する研修費用の返済を断念すること。 |
2) | Y社長自らA社員との話し合いの場を持ち、感情的になっていた非を認め解雇を撤回し、改めて退職届の提出を求め任意退職とすること。 |
3) | 退職金は、規定に基づきその全額を支払うこと。 |
以上のような誠意ある対応は、労働組合への回答にもなるということに、不承不承ながらY社長は認めることになりました。
また、今後の人事労務管理については、次の事項を検討するよう要望しました。
1) | 「海外研修規程」を設け、その目的、恣意的人選に陥らないような選考手続、研修にかかる費用負担などを明文化すること。 |
2) | 社員一人一人が経営に対し、参加意識をもてるような会社の経営理念、経営方針、経営目標などを改めて整備し、全社員に周知させること。 |
3) | 会社と社員との信頼関係構築のためコミュニケーションの機会(朝礼、ミーティング、会議、研修会、親睦会など)を設けること。 |
税理士からのアドバイス(執筆:木口 隆)
ファイナンシャルプランナーからのアドバイス(執筆:草刈 修司)
今回のケースは、社長とA社員のコミュニケーション不足から発生したトラブルと言えるでしょう。S社にとってはこれからが大変です。本件を契機に、これを教訓として早く立ち直ってもらいたいものです。
さて、S社の今後のために、FPの立場から海外研修・慰安旅行に関する会社の安全配慮義務等についてご説明しておきます。
海外研修・旅行において最も気をつけなければいけないリスクは、安全性が脅かされることです。諸外国の中には治安の悪い地域もありますし、安全性を確保するための独特の決まりがあり、その決まりを知らないで行動したために危険に巻き込まれる場合もあります。
安全性が脅かされるリスクには、住宅や企業における窃盗、本人や家族に対する強盗・殺人・誘拐、テロやクーデター、果ては戦争による被害も考えられます。リスクを回避し、安全性を確保するためには、特に次の点に注意し、対策を講じておくことが必要です。
1) | 現地の情報を事前に入手し、安全の程度、安全な地域、時間、危険の種類などを確認します。 |
2) | 危険とみなされる場合には、出張や転勤の計画を変更する決断も必要です。日本在外企業協会や民間の情報サービス機関に情報提供を頼むことも忘れてはなりません。 安全な地域での宿泊および交通手段を確保します。経費削減のために、または個人のポケットマネーを浮かせるために、安宿に泊まったり、危ない地域で住宅を借りるようなことを避けるのが賢明です。 |
3) | バス・地下鉄などの公共交通手段を用いても大丈夫か、タクシーは安全か、自家用車が必要か、などを十分に考慮して、移動のための経費を見積もる必要があります。 |
4) | その地域での戸締りの注意点、信用のおける使用人を雇用するための基準などの確認も必要です。 |
5) | 問題が起こったときの連絡先、信頼できる現地の情報機関、病院などの確認も必要です。 |
6) | 海外での疾病・けが・盗難等に対しては保険をかけておくことも必要です。世界中のどの地域でトラブルがあってもカバーする保険も売り出されています。海外で治療を受け、まもなく帰国してしまう場合でも、現地での治療費を後から返してもらうことができます。ただし行き先や活動内容によって保険の対象から外される場合があるので、事前に保険事故の対象となるのかどうか、保険内容のチェックが必要です。 |
長期にわたって海外で研修することは、社員にとっては貴重な体験となります。しかし、それが社員の適性やキャリアに適合していることが前提だということを忘れてはなりません。たとえば、最先端の技術開発の担当者が海外の工場を立ち上げる際の交渉を受け持ったとして、自分のキャリアに役立つとはかぎりません。長期に滞在していれば、かえって技術情報から遅れるおそれが生じるものです。海外への派遣は、社員本人の適性やキャリアを十分に考慮して計画することが重要です。
海外では、今までとはまったく異なった職場環境で働くことが要求されます。そのため期待やプレッシャーから、心身ともに無理をする社員も多くみられます。海外に派遣した人材が体をこわしたり、ノイローゼで自信を失い、長期的に戦力とならなくなるリスクもあります。
日本から日常的にコンタクトをとり、無理な仕事を任せたり、慣れない環境下で孤独な作業に長期的に従事させたりして、社員にーのストレスを増やさないように、適切なフォロー体制を構築しておくことが必要でしょう。
社会保険労務士の実務家集団・一般社団法人SRアップ21(理事長 岩城 猪一郎)が行う事業のひとつにSRネットサポートシステムがあります。SRネットは、それぞれの専門家の独立性を尊重しながら、社会保険労務士、弁護士、税理士が協力体制のもと、培った業務ノウハウと経験を駆使して依頼者を強力にサポートする総合コンサルタントグループです。
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SRアップ21山形 会長 山内 健 / 本文執筆者 弁護士 村山 永、社会保険労務士 西村 吉則、税理士 木口 隆、FP 草刈 修司