第101回 (平成22年6月号)
通勤手当はいりません!
えっ、自転車で20kmだって…
通勤手当はいりません!
えっ、自転車で20kmだって…
SRネット石川(会長:菊池 寛治)
相談内容
最近の自転車ブームで、H社にも“趣味が自転車”という者が多くなってきました。どうも、会社には内緒で自転車通勤をしている者もいるようです。
このような事態を心配したB総務部長がK社長に相談しています。
「社長、隠れて自転車で通勤している者がいるようですが、ここは再調査をして自転車通勤を禁止するようにしたいのですが…」とB総務部長がいうと「自転車?それは健康的で良いのですね、自転車通勤を許可して通勤手当の支給をやめたらいかがですか」とK社長が答えます。
「しかし、社長…交通事故の危険がありますし、雨の日は電車できました、なんて言われると精算が面倒ですよ、第一、会社には仕事でくるのですから、自転車通勤禁止!の方がよろしくないでしょうか」とB総務部長が食い下がりますが「そうすると、自宅最寄り駅までは自転車、という人も禁止ということになってしまうので、○km以上の自転車通勤は禁止、ということの方がよさそうですね」というK社長の意見に落ち着きました。次の日に、自転車通勤に関する通達がH社全社員にメール送信されると、3人の社員がB総務部長のところにやってきました。
「私たちは同じサイクリング同好会に加入しています。日々の練習が重要なので、自転車通勤を許可していただきたいのですが…通勤交通費が問題になっているのであれば、それは不支給でも結構です!」
堂々とした物言いにB総務部長はあっけにとられてしまいました。「しかし、君達の自宅から会社までは、20km以上あるだろう、それを雨の日も風の日も自転車で通勤するというのかい?」社員達はいたってまじめにそれを肯定しました。「しかしね、交通事故の危険や帰宅時に過労運転みたいなことになってしまうと、会社も困るのだよ…」B総務部長は諭しながら3人を見渡しましたが、3人の社員も譲らない構えです。
「仕事はきちんとやっています!」
相談事業所 H社の概要
-
- 創業
- 昭和11年
- 社員数
- 41名 契約社員12名
- 業種
- 市場調査業
- 経営者像
H社のK社長は創業社長で49歳、まだまだ若いK社長は、健康志向が強く、社員たちにもスポーツを奨励しています。“健康第一”“体が資本”をモットーに体育会系のノリで、明るい職場づくりを目指しています。
トラブル発生の背景
多くの会社が通勤手段を規制していますが、管理状況を確認すると、結構ずさんな場合が多いようです。自転車、オートバイといった比較的目立たない手段で通勤することを、どこまで追求し是正すべきでしょうか。
最近では、自転車購入費を支払って、通勤手当を支給しない会社があるようですが、H社の社員たちの言い分を聞くことが、H社にどのようなリスクとなるのでしょう。
経営者の反応
社員たちは、自転車で通勤することを希望しているだけですし、会社は通勤手当分得するし、何もなければ、労使共にメリットのある話です。
「彼らは3人とも仕事ができるからなぁ、その自信もあって強行に出ているのだろう…どうするかな…通勤については使用者責任がないというが、あまりに無理なことを会社が許容していると思われてもいやですしね…」さすがのK社長も困ってしまいました。「社長、どこかへ相談しましょう。法的な見解や今後発生するリスクについては、我々だけでは答えが出ません…」B総務部長の提案に対し、K社長も同意しました。
「まずは、彼ら3人に少し時間をもらうように話をしておいてください、退職なんてことになったら、その方が大変です」
弁護士からのアドバイス(執筆:二木 克明)
本件で、労働者に長距離の自転車運転を認めた場合、H社として心配なのが、自転車通勤の途中で、?労働者が交通事故等の被害に遭った時に会社に対して責任追及がなされるのではないか、あるいは、?労働者が交通事故等を起こして他人に危害を加えた場合、その被害者からH社に対して責任追及がなされるのではないか、という点でしょう。
そこで、法的にはどうなっているのか、以下順次検討しましょう。
労働者が被害に遭った場合
まず、労働者が自転車通勤で路上を走行中、交通事故被害に遭ったとして、会社が損害賠償責任(安全配慮義務違反)を負うのかどうか、という問題です。
このような場合、被害に遭った労働者が軽傷であれば、本件のように自転車通勤が認められた経緯などからしても、責任を追及して来る心配はまずありません。また、仮に大怪我だったとしても、加害者が任意保険に入っていて十分な賠償がなされるのであれば、H社に損害賠償請求の矛先が向くことはまずないでしょう。
しかし、怪我が重大で労働者が死亡したとか、あるいは重大な後遺障害が残るような場合で、かつ、加害者が任意保険や自賠責保険に入っていない場合、矛先がH社に向いて来ることは十分にありえます。
このような場合、通勤時の事故であれば、労災から補償がなされますので、相手が保険に入っていなくても、相当の補償はなされることになります。ただし、労災補償には、療養給付や休業給付および後遺障害の障害給付、そして死亡した場合の遺族給付はありますが、これらに慰謝料的なものは含まれていませんから、その分についてなお、民事裁判に訴えて来ることもありえる、といえます。
民事責任についてー安全配慮義務とその判例
次に、雇い主に安全配慮義務違反があったかどうかを考えてみましょう。
安全配慮義務というのは、法文上には出て来ない言葉ですが、判例上、認められるようになった雇い主の義務です。たとえば、最高裁昭和59年4月10日判決は、労働者D(新入社員)が宿直勤務中、盗み目的で訪問して来た元従業員から殺害された事案で、「使用者は、労働者が労務を提供する過程において、労働者の生命及び身体等を危険から保護するよう配慮すべき義務を負っている」と判示しています。
そしてその事案では、「会社では、盗賊侵入防止のためののぞき窓、インターホン、防犯チェーン等の物的設備や侵入した盗賊から危害を免れるために役立つ防犯ベル等の物的設備を施さず、また、盗難等の危険を考慮して休日又は夜間の宿直員を新入社員一人としないで適宜増員するとか、宿直員に対し十分な安全教育を施すなどの措置を講じていなかったというのであるから、会社には、Dに対する前記の安全配慮義務の不履行があったものといわなければならない。」と判示し、雇い主の損害賠償義務を認めています。
また、朝霞駐屯地自衛官殺害事件で、駐屯地内で見張りをしていた自衛隊員が、制服を着用して幹部自衛官を装い、衛門から不法侵入した過激派に殺害された事件で、安全配慮義務違反を認めました。
では、本件の場合はどうでしょうか。
本件で注意を要するのは、問題になっているのが業務上の事故ではなく、通勤中の事故である、という点です。労災補償法1条の表現等からも明らかなように、法は、業務上の事故と通勤中の事故を明らかに区別しています。 また、安全配慮義務の実定法上の根拠と思われる労働基準法75条でも、雇い主が災害補償の義務を負うのは、業務上の負傷や疾病に限定されています。
前述の二つの判例の事案でも、いずれも業務中の災害ですし、通勤中の事故で安全配慮義務違反による責任を雇い主に認めた判例は見当たりません。
そうだとすると、仮に通勤途上で事故が発生しても、自己責任だぞ、とよく言い含めた上で、自転車通勤を認めるのであれば、後で賠償請求される可能性は極めて低い、と考えてよいのではないでしょうか。この場合、何かあっても自己責任である旨、本人に一筆書いてもらうのも合理的な自衛策と思われます。
労働者が第3者に危害を加えた場合
この場合は、事故の被害者から、民法715条の、使用者責任を追及されるのではないか、が問題となります。
民法715条は、「ある事業のために他人を使用する者は、被用者がその事業の執行について第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。」と定めています。これは、雇われている者が、業務を執行するについて、第三者に不法行為を負わせた場合、その雇い主にも使用者として損害賠償責任を負わせるものです。
ただこの場合も、あくまで「事業の執行について」なされた場合でなければ、使用者に責任は生じません。この「事業の執行について」の解釈としては、使用者の事業の範囲に該当する行為をした場合、あるいはそれと密接不可分な関係にある業務そして付随的業務をした場合を言う、とされます。また、被用者についても、被用者の職務の範囲に属するか、少なくとも外形上、職務の範囲に属する行為であれば、該当する、と言われています。
この基準からすると、やはり通勤は、「事業の執行について」には該当しないように思われます。判例でも、通勤時の事故に使用者責任を負わせた事案は見当たりません。
ただし、H社としては、自転車の場合にも任意の賠償責任保険があるのですから、少なくとも、その保険には必ず加入させて、その保険証券のコピーを提出させる、という程度の自転車通勤許可要件を設けるなどの工夫が必要だと思います。
社会保険労務士からのアドバイス(執筆:菊池 佳寿代)
社員の一部が自転車通勤を強行に希望し、会社が規則によって自転車通勤を禁止することは、それらの社員が会社にとって重要な戦力であることを考えた場合、賢明な選択ではないでしょう。また、会社の方針としてスポーツを奨励しており?健康第一??体が資本?をモットーにしていることからも、自転車通勤を認める方向で問題点を整理すべきと考えます。
自転車通勤の問題点と対策
? 長距離自転車通勤による業務への影響
通勤による疲労等により業務に影響が生じる恐れがあり、仕事に悪影響が出た場合には、自転車通勤を禁止する必要があるため、自転車通勤は承認制とする
? 禁止しなければならないことを明確にする
イ 飲酒運転
ロ 携帯電話・傘等を使用しての運転
ハ その他の道路交通法違反行為
自転車は車輌であることを十分に認識させ、交通法規を遵守させる必要がある。
また、交通事故により社員が負傷すれば会社への影響が大きく、第三者を負傷させれば、自分が賠償しなければならないことを自覚させる。
? 事故対策
自転車通勤途上の事故で社員が第三者を負傷させた場合、原則会社の責任は考えられない。しかし、万が一のことを考え「自転車通勤規程」には求償規定に盛り込む。また、承認の条件として民間保険への加入を義務付ける。
? 自転車の運転権
自転車の運転権は当該社員が通勤に使用するのみとし、同僚社員等には使用させない。駐輪場所等での自転車の管理についても厳格にする。
? 承認基準の明確化
通勤に自転車を使用することは承認された社員であることを明確にし、1年毎の更新制とする。期間途中も含め、違反行為があった場合には、承認の取り消しを徹底する。なお、自動更新は行わないこととする。
? 業務用使用の厳禁
通勤自転車を社用に使用することを厳禁とする。
? 報告義務
自転車通勤者が通勤途上に事故を起こした場合、直ちに会社に報告させ指示により行動させる。また、事後、事故状況を詳細に報告させ、再発防止に活かす。
? 通勤手当の支給
通勤手当を全く支給しないことは、会社が直接的に利益を受けていることとされて、自転車通勤を助長させていると思われる可能性がある。よって、職務の性質から、自転車通勤の必要がなく、直接的にも間接的にも会社が何らの利益を受けていないことを明確にする必要があるかもしれないこと。
例えば、公共交通機関の料金の半額程度でも支払えば、例え天候の関係で公共交通機関を一時的に使用した場合でも、特に精算を必要としない。
自転車通勤のメリットとして、また、会社もスポーツを奨励していることから、自転車通勤は正に健康増進となりうるもので、成人病予防の意味からもある意味では奨励されるべきものと思います。健康管理は、社員個人が自ら行うものであり、早朝のジョギング、ウオーキングや、仕事終了後のスポーツセンター通い、土日の登山等それぞれ取り組んでいるもので、それらを考えると自転車通勤は一挙両得とも思えます。健康的な社員が職場環境を明るくすることが期待でき、会社の業績アップが望めるのではないでしょうか。
税理士からのアドバイス(執筆:村上 博丈)
本件において、税務上のポイントになるのは、次の2点と考えます。
1.自転車通勤をする社員に対して支給する通勤手当の所得税上の取扱い
2.自転車通勤をする社員に対して支給する通勤手当の消費税上の取扱い
自転車通勤をする社員に対して支給する通勤手当の所得税上の取扱い
給与所得を有する者で通勤するもの(以下この号において「通勤者」という。)がその通勤に必要な交通機関の利用、または交通用具の使用のために支出する費用に充てるものとして通常の給与に加算して受ける通勤手当(これに類するものを含む。)のうち、一般の通勤者につき通常必要であると認められる部分として政令で定める所得については、所得税を課さないこととしています(所得税法第9条第1項第5号)。
なお、その非課税とされる通勤手当の金額は通勤手段と通勤距離に応じて定められています(所得税法施行令第20条の2)。
通勤のため自転車その他の交通用具を使用することを常例とする者の例(一部抜粋)
?通勤距離が片道2キロメートル未満である場合・・・・全額課税
?通勤距離が片道15キロメートル以上25キロメートル未満である場合・・11,300円
(具体例)
片道の通勤距離が20kmの社員であれば、次のような取扱いになります。
仮に月額15,000円の通勤手当を支給する場合、11,300円までの通勤手当額については、所得税は非課税となります。
差額の3,700円については、所得税の課税対象になります。
自転車通勤をする社員に対して支給する通勤手当の消費税上の取扱い
事業者が使用人等で通勤者である者に支給する通勤手当(定期券等の支給など現物による支給を含む。)のうち、当該通勤者がその通勤に必要な交通機関の利用,、または交通用具の使用のために支出する費用に充てるものとした場合に、その通勤に通常必要であると認められる部分の金額は、課税仕入れに係る支払対価に該当するものとして取り扱うこととされています(消費税法基本通達11-2-2)。
つまり、自転車通勤をする社員に対して支払う通勤手当のうち、交通用具(自転車)の使用のために支出する費用に充てるものとした場合に、その通勤に通常必要であると認められる部分の金額は、課税仕入れに係る支払対価に該当するものとして取り扱うことになります。
所得税法施行令第20条の2(非課税とされる通勤手当)の非課税限度額の範囲内の金額であれば、自転車通勤の場合の交通用具(自転車)の使用のために支出する費用に充てるものとした場合に、その通勤に通常必要であると認められる部分の金額に該当し、その通勤手当は課税仕入れに係る支払対価に該当するものとして取り扱って差し支えないものと考えます。
(具体例)
片道の通勤距離が20kmの社員であれば、次のような取扱いになります。
仮に月額15,000円の通勤手当を支給する場合
11,300円までの通勤手当金額については、課税仕入れに係る支払対価に該当します。
差額の3,700円については、課税仕入れに係る支払対価に該当しません。
これは、自転車通勤者に対する通勤手当についての考え方であり、交通機関を利用する場合等は、実際に通勤に充てられている金額については、所得税の非課税限度額を超えた部分の金額も課税仕入れに係る支払対価に該当します。
以上のように、通勤手当として区分して取り扱うことによって、社員の通勤距離にもよりますが、社員の所得税負担が減少します。また、H社が社員に支給する通勤手当を課税仕入れに係る支払対価として計算することによって、消費税の納税額も減少します。その点からも1人1人の通勤距離を把握した上で、その距離に応じて通勤手当を計算し、その結果を保存しておくことが必要です。
しかし、これはあくまでも税務上の取扱いですので、労務管理上の問題や他の交通機関を利用する社員とのバランスも踏まえ、社員のモチベーションアップが図れる通勤手段に関する規定をH社として整備していくことが必要であると考えます。
社会保険労務士の実務家集団・一般社団法人SRアップ21(理事長 岩城 猪一郎)が行う事業のひとつにSRネットサポートシステムがあります。SRネットは、それぞれの専門家の独立性を尊重しながら、社会保険労務士、弁護士、税理士が協力体制のもと、培った業務ノウハウと経験を駆使して依頼者を強力にサポートする総合コンサルタントグループです。
SRネットは、全国展開に向けて活動中です。
SRネット石川 会長 菊池 寛治 / 本文執筆者 弁護士 二木 克明、社会保険労務士 菊池 佳寿代、税理士 村上 博丈